表紙の話

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新刊の表紙は初めてツヤ加工をしてもらって、とてもかわいく刷り上がりました。

ツヤ加工は、インクを刷った後にツヤ用の粉をふりかけ、加熱して定着させるという工程を踏むので、グラデーションなどはうまく粉が乗らない部分がありますよと印刷会社の方が電話で教えてくださったけれど、試し刷りをしてみたら思ったよりずっと綺麗にグラデーションしていて、一目ですきになりました。こんな小さなことでも、新しいことを試してみるというのはとても緊張して、刷り上がりの本が自宅に届くまで、風呂に入っているときに思い出しては顔を覆い、歯を磨いているときに思い出しては俯き、心臓が早鐘でした。届いた本を見て、やっとホッとできたのでした。(入稿ミスがとても多い人)

 

どのくらいの方にそう見えているかは分かりませんが、これは一応、地図を模した模様です。どこか特定の地域の地図ではなく、「どこかにあるかもしれない架空の場所の地図」と思って線を引きました。いつもの本は本の内容や行った国から何かモチーフを取り出すことが多いのですが、今回は色々な場所に行った時の話の詰め合わせなので、どうしようかな…と考えて、地図になりました。表紙は本文の中身を考えるよりもずっと先に決まりました。だからか、地図の上を転々とするような、ころころとした話の寄せ集めにしたいなあと思って本文を描きました。

 

また、地図の国境が破線になっているのは、以前Twitterでも話したナムジュン・パイクの作品『ユーラシアのみち』のことを考えていたからです。

その作品では、ユーラシア大陸諸国の日用品を国の位置の順番通りに並べていくというもので、すると位置関係はユーラシアの地図のようになるものの、日用品の様相というのは国境でパキッと変わるものではなく、だんだんと変わっていくもので、文化はグラデーションしていくのだということが分かる作品でした(人から聞いた話と図録を頼りにこの説明を書いています)。

その作品の話を初めて聞いたときにわたしはものすごく感動して、今回表紙に地図のようなものを描くときも、国境をはっきりと引いてしまうより、不確かなものとして引く方が自分の中でしっくりくると思いました。

背景色の黄色がグラデーションしているものそういう訳です。そういう訳なので、綺麗に印刷していただけてとても嬉しかったです。

 

 

記憶を頼りに今も旅行記を描いていますが、好きな時に好きなところに行けたのは本当に幸せで尊いことだったんだなあといつも思いながら本を作っています。

今、世界でいろいろな悲しいことが起きていますが、あらゆる人の元にあらゆる自由が戻ってくることを願います。

 

ちなみに、本文が黄色い紙×黒インクなのは…単純に…「寅年最初の本だし黄色と黒にしてみるか!^^」というノリでした。表紙もそうしようと思ったのですが、色々あって濃い緑の線になりました。裏表紙のツヤっとした緑文字もちょこんとかわいらしく、気に入っています。

 

今回の本は友人にもたくさん出演してもらえて、賑やかで楽しい本になりました。感謝です(ありがとう!)次の本はどんな本にしようかな。

家を燃やさない

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自室のドアにこういうのを貼ってある。これを見て、出かける前に指差し確認をする。

「恐らく全部クリアしてるだろうな」という時でも、指差し確認を忘れて部屋を出てしまった事に気づくと、駅まで歩く途中でも引き返して確認する。戻る道すがらに「相変わらず強迫観念の塊だな」と思う。自分で決めたルールから逸脱してしまうと、もうパニックになってしまう。

このメモを貼るより前、家に誰かがいる時は家族に連絡して部屋を確認してもらっていたけれど回数が増えるごとに申し訳なさは募るし、もちろん家に誰もいない時もある。

なのでメモを貼って逐一指差し確認するようにしている。

 

昔、映画を観に行った時に、ヘアアイロンの電源をちゃんと消したのかどうか確認せずに家を出たことを思い出して、顔面蒼白で終始映画を観続けたことがある。暗闇だから顔面蒼白なのはいいけれど、映画に集中できる訳がなかったので内容を覚えていないのが悔やまれる。もう何の映画だったかも覚えていない。

スクリーンにはずっと、私のヘアアイロンによる出火が原因で全焼する実家の様子が映し出されていた。

ヒーターにはタイマーが付いているので一定時間を超えると自動で電源が切れるし、ヘアアイロンも恐怖心ゆえに買い替えて、今はタイマー付きのものを使っている。エアコンで家が燃えることは恐らくだけど、ない。もっと言えばヒーターがずっと付いていようがヒーターの前に燃えるようなものはあまり置いてないし、ヘアアイロンで家が燃えるのかも分からない。

それでも怖い。家が燃えるのが。家が燃える可能性を自分の過失で0.1%でも増やしてしまったことが。

 

母の知り合いの家が家事で全焼してしまったということが昔起きたらしく、幸い皆無事だったけれど、「家族の写真が1枚も残っていないのが本当に辛い」(当時は写メとかなかった)と言っていたのをよく思い出す。

この先もずっと家が燃えないで欲しい。

みなさんも火事にはお気をつけください。

兄とする映画の話

兄から「アメリカン・ユートピアを観ましたか?」というLINEが来て、かなりの長文で返信をした。

シネクイントであの映画を観た時、私はデイヴィッド・バーンはおろか、トーキング・ヘッズも名前を知っている程度の知識で観に行ったのだけど(何故なら評判がとても良かったのと、何より監督がスパイク・リーだったから)劇場で観て良かったと思う。面白かった。エンターテイメント性とウィットに富んでいて、なのに突然平手打ちされたような展開が訪れたその時、最初はよく分からなかった「何でこの映画をスパイク・リーが撮ったんだろう」という謎が解けた。観て良かった。

そして周りに座っているおじさん達(平日の昼間に観に行ったのに、恐らくトーキング・ヘッズ世代の男性をはじめとする観客でほぼ満席だった)の盛り上がりが、劇場全体の空気を熱くしてくれたと思う。

コロナ禍なのでもちろん声は出せないけれど、熱気があった。とある曲のイントロか歌声かが流れ出した瞬間、隣の席の男性がわずかに身じろいだ。それで「この曲は彼にとっての大事な曲か、トーキング・ヘッズの代表曲なんだ」ということが分かった。

兄はブルーレイで観ているらしいので途中で寝てしまったらしいのだけれど、最後まで見て欲しい、スパイク・リーの映画だって実感する、と念押しする旨の返信をした。

 

多分私の家族の中では私と兄と父が映画を割と好きな方で、兄と私は面白い作品に巡り合って「しまった」時、お互いにLINEをする。それ以外の普通の世間話ではLINEをした事がない。LINEは全て敬語で(私の家族はメールやLINEは全て敬語)URLだけが送られてくることもある。

兄も私も元々そんなに映画を観る方ではなかったと思う。私は大学生でレンタルビデオ屋のバイトを始めるまではほとんど映画は観なかったし、兄は…兄の映画遍歴のことはよく知らない。でも普通にスターウォーズなんかが好きな青年だったと思う。

でもある年の暮れごろにLINEが突然来て「今年一番良かった映画は何でしたか?私は『サウルの息子』でした」と書いてあってびっくりした。

サウルの息子』はアカデミー賞外国語映画賞を獲っていて、第二次世界大戦下のユダヤ強制収容所が舞台の映画だ。

受賞のこともあり決して知名度の低い作品ではなかったけれど、兄の口から(LINEから)このハンガリー映画の名前が出てくるとは思わなかった。私もレンタルビデオ屋で働いていたので名前は知っていたけど、観ていなかった。その後観て、無言で見終えた。面白くないのではなくて、そういう映画だから。

 

兄とは趣味が完全に合うわけではないけれど、交わるところは大いにあるので、勧められたものは割と観る。勧められた最新のものは濱口竜介監督の『偶然と想像』だけど、私は『ドライブ・マイ・カー』を観た直後の興奮冷めやらぬところだったのでそちらのプレゼンで精一杯だった。

正月に『八甲田山』が観たかったので兄に借りに行った(持ってるとは言ってなかったけど兄なら絶対持ってると思った)ら、岡本喜八の『血と砂』が何故か添えられて手渡された。兄は岡本喜八が大好きなので、この映画も前冒頭部分を見せて熱く語られた。八甲田山と続けて見るにはちょっと重すぎる内容なのでまだ観ていない。

古い日本映画のことはお互い観ることが多いけど、私が小津を愛しているのに対して兄は「・・・・」という感じなので、そこは分かり合えていない。

彼はスターウォーズ、マッドマックス、岡本喜八黒澤明あたりが好きで、『マッドマックス 怒りのデスロード』は確か8回劇場に観に行って、8回目を見る時も「今度こそマックスが負けたらどうしよう」と不安でいっぱいだったらしい。

 

私たちは『牯嶺街少年殺人事件』がものすごく好きなので、この間久しぶりに観たあと兄にその話をしたら、兄もちょうど少し前に観た所だった。「好きなシーンを挙げるならどこ?」と聞くと、少し考えて「あの、学校で、暗闇からバスケットボールが飛んでくる所」と言われ、私は「そうなんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」と叫んだ。

私もこのシーンが大好き。この映画の好きな所は「通常、心情や状況を伝えるために移されるであろう対象(表情とか)が意図的に移されておらず、容易に読み取る事ができない」という所で、その奇妙さが、この暗闇から突然ひゅっと飛んでくるバスケットボールにも憑依していた。そこが好きだった。兄がこのシーンをどう好きなのかは知らないけど。

台所でお茶を淹れながら、母が引いていた。

 

今日のLINEの最後は『あのこは貴族』は最高だ、という話で締め括られた。

去年観た映画でベスト10を作れと言われるならば、入れない方がおかしいというくらい私は何だかこの映画がとても好きで、大事だ。大事という言葉がしっくりくる。

今年のベスト10を作るならば、リバイバル上映ではあるけれど、もうドライブ・マイ・カーが入るのは決まっている。ベスト3かもしれない。今年に入ってから原稿などで忙しくて、まだ2回しか劇場で映画を観られていないけれど、そのうちの1本であるこの映画が君臨するのはもう決まっている。

旅の写真

(この記事はイベント前に書いて下書き保存していたものです)

 

イベント用の諸々の準備が終わりつつあるので、久々に…というか今年に入って初めて(!)映画を観たりしている。そして100年前からやりたいと思っていたフォトブックの写真を選んだり、印刷サービスを比較したり。

学生の頃のブック(今更だけど私の所属していた写真サークルは単品ではない冊子形式の作品集のことを「ブック」と呼んでいた)は置いておいて、写真集はほとんど旅行写真集しか作った事がなくて、なのでそうじゃないブックをずっと作ってみたかった。

 

旅の写真集を作るのはもちろん思い出作りにもなるし、人に喜んでもらえるというのもあって作ってて楽しかった。けどどこか逃避みたいなものも感じていて(このことは旅行写真集自体を貶めるものでは何らなくて、旅行写真集は旅行写真集なのでそれだけでよかった)、というのは、旅行写真集は「旅行」というテーマがあるのでそれでもう第一関門は突破というか、大きな意味を持たせる必要がないというか、むしろ持たせてはいけないと思っていた。何故なら撮っている時に大きなテーマや主張を込めて撮ってはいなかったので、本を作る時にいきなり主張を込めるのは付け焼き刃のような、とってつけたような滑稽なものになる…と自分で思っていた。

なので単純に「旅先で私が見たもの、見て美しいと思ったもの」を並べることだけに注力していた。一枚一枚に感じたものだけ、観てもらう側にもしも何か感じてもらえたらそれは幸せなことだなあ…と思っていた。

 

という訳で、旅とは関係ない写真集に真剣に向き合ったことがない。世の写真家たちは、どうやって写真集を作るんだろう。

好きな写真家の川島小鳥さんの「明星」は、何年もかけて台湾に足を運び、現地の彼らと仲良くなって撮り溜めた写真たちを載せた本だ。

こないだ見たロニ・ホーンの展示では、6週間かけて同じ場所と距離・アングルで同じ女性を100枚も撮った写真を見た。

写真家によってアプローチは様々だろうし、私は写真家ではなく(写真家の定義ってよく分からないけど少なくとも)趣味で撮った写真を製本することに嬉しさを感じるだけのただの人なので、ここまで考える必要はないし、そもそもやっぱり撮った時に考えていた事がもう思い出せない以上は何か意味を持たせることは滑稽でしかない。

こういう難しい書き方ばかりしてるとブックを作るハードルがどんどん上がる一方なので、この話は終わり。

余談だけど、人を撮るのは難しい。私が人と関わるのが下手くそだからそうなんだと思う。上で挙げた2つの写真集は被写体との関係性が紙の向こうからひしひしと、じんわりと伝わってくるそんな本で、私には(その技術というか、その在り方が)とても遠いものに感じる。森栄喜さんの『intimacy』を最初に見たときもそう感じた。

私は山や海や、遠い草原で人がぽつんと立っているようなそんな写真を撮るのが好きだし、現像データを見て「私らしい写真だ」と感じる。それは同時に少しさびしい。

 

旅行写真集に意味をもたせないとはいえ、写真の配置は毎回とても悩んでいた。フォトブックアプリ(いつもしまうまプリントさんには大変お世話になっております)で配置を試したり、試し刷りして全体のリズム感を見てみたり…

「ここ、植物の写真が固まりすぎてる」や、逆に「ここの見開き、3連続で【左:植物】【右:人物を限りなく遠くから撮ったショットだ、恥ずかしい」、「なんかここら辺のページ全体的に茶色い」「好きな写真を選んだら人物写真が一枚も無くなった(無くてはいけない訳じゃないけど)」などなど色々改善点は出てくる。

でもこの作業はとても楽しい。

 

誰かと旅行に行った時は、いつも帰国して写真を現像したあとにしまうまプリントでフォトブックを作って、同行者にもらっていただいたりしていた。母とポルトガルに行った時は、初めて母にフォトブックをプレゼントできて嬉しかった。一眼レフの調子が悪く、ほとんどの写真は露光がめちゃくちゃになっていて新宿のビックカメラで男泣きしたけど、iPhoneでも沢山写真を撮っていたので助かった。思い出は心に残るけど、何気ないことは少しずつ忘れてしまうから、写真を撮っていてよかったと後々思うことがたまにある。

母とロカ岬で強風に煽られながらのツーショットは最後の方に忍ばせた。この写真集は母の棚の一番下の段で今も面置きされている。

写真

前の記事で、見つけたら載せますと言った写真、見つからず

前のMacBookなら入ってる気がするけど起動に10分掛かるのでやさしい気持ちで明日トライしてみよう。

代わりにフォルダを漁って見つけた写真f:id:lllro_84:20220213011833j:image

これは何年前だろう、学生時代に北海道に帰省した時モエレ沼公園で撮ったもの 当時(そして今も)一番好きだったアレクサンダー・グロンスキーの写真みたいなのが撮りたい…と思って撮ったもので、その思い出も相まってちょっと面映い。

グロンスキーは昔東雲で開かれた個展も行ったけど、その時は写真集は買わなかった。写真集というのは結構なお値段がするので、海外のものは特に手が出ないものが多い。

でも今買おうとすると多くは在庫がないかもしくは10万円とかに高騰していたりして、

本当に写真集というものは一期一会だと思います。次出会えた時、それはきっと運命の時なので、絶対に逃さない。

題名

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去年(と書いて一昨年だったことに気づいた、2020年は一昨年)の9月に、Twitterで「自分が惹かれるタイトルを挙げてみる」みたいなハッシュタグかツイートかが一瞬流行って、自分でもその時挙げてみたものを以下に羅列してみます。

あれ以降いいなと思ったものも追加してみます。

 

本のタイトル

春と修羅

よだかの星

月に吠える

富嶽百景

薬指の標本

いなか、の、じけん

蝶々の纏足

中国行きのスロウ・ボート

レキシントンの幽霊

月と六ペンス

一千一秒物語

ライ麦畑でつかまえて

神の子どもたちはみな踊る

旅行者の朝食

生まれた時からアルデンテ

幽霊たち

夜間飛行

絵のない絵本

夜明け前

蜜のあわれ

海をあげる

 

歌のタイトル

六等星の夜

いのちの名前

名前のない怪物

美しい名前

初めての呼吸で

Orphans

夜を駆ける

若者のすべて

Radical Dreamers 〜盗めない宝石〜

金星

新宝島

永遠だったかもしれない

wonderwall

柔らかい月

あの青と青と青

恋とマシンガン

目が明く藍色

夜の踊り子

春擬き

 

映画のタイトル

shape of water

嘆きのピエタ

GHOST IN THE SHELL

永遠と一日

SOMEWHERE

パリ、テキサス

容疑者Xの献身

神々のたそがれ

未来世紀ブラジル

恋する惑星

ミツバチのささやき

そこのみにて光り輝く

あの頃ペニー・レインと

おとぎ話みたい

ベニスに死す

永い言い訳

最高殊勲夫人

勝手にふるえてろ

ひそひそ星

そして父になる

きみの鳥はうたえる

落下の王国

 

漫画のタイトル

光の庭

夢中さ、きみに。

絶対安全剃刀

薔薇だって書けるよ

Jの総て

トーマの心臓

こいつら100%伝説

ルナティック雑技団

月にひらく襟

かんぺきな街

 

 

ここで挙げたタイトルたちはあくまで「タイトルだけで惹かれた」ものであって(なので読んでない/見ていないものも多々ある)、と言いたいところですが、自分で読んだり見たりしたものに関してはどうしても作品の中身との関連性を含まずにはいられず…想いが込められてしまっている、ような。『新宝島』なんかはその真骨頂で、これはバクマン。の映画の主題歌なのですが、漫画家になるという夢を追いかけて道を切り拓き、文字通り冒険を繰り広げていく二人の少年の物語の主題歌に、漫画の神様である手塚治虫の代表冒険譚と同名のタイトルを掲げるということが、当時わたしの胸をどんなに打ったか。

でもやっぱり、物語と完全に切り離して考えるのは難しい。映画の『情婦』しかり『さざなみ』しかり『A brighter summer day(牯嶺街少年殺人事件の英題)』しかり…作品を見終えて初めて「こ、このタイトルを……この作品に……!!」という感動・絶望・激情・興奮の洪水を味わったときの気持ちは何ものにも替え難くて、刃物で刺されたような、またはじっくりと味わって噛み締めるような、あの瞬間は映画を見る醍醐味だとわたしは思っています。

 

全体的に「撞着語法」に弱いようです。ここでは例えば『絵のない絵本』『柔らかい月』そして『shape of water』や『絶対安全剃刀』もそれに属するのか…?そして否定形に弱い。自分で作品にタイトルを付けるとき、気を抜いているとすぐ否定形になってしまう。なんだろう…そこに宿るちょっとしたあきらめ、絶望、嫌味、からかい、そしてその「隠された感情」みたいなものが作品にどう作用しているのか…という不思議な魅力に、つい引き寄せられているような、そんな感じ

それと同じくネガティブな単語が入っているタイトルにも弱い。あと漢字をあえて平仮名にしているものにも何か感じるし…夜・星・海・神性を感じるタイトルにはめっぽう弱い。そして強めの単語やデカすぎ数字が入ってるもの(富嶽百景など)も弱い…心はずっとホールデン・コールフィールドなので。ジャケ買いはあまりしないタイプだけれどタイトルで選んだりはする。タイトルって作品に被せる蓋のような、縫い物の最後にする玉結びのような、人形作りで瞳に色を塗るときのような、封筒に最後に押す封蝋のような…そんなイメージをずっと持っていて、いのちの一部(というのは、いのちそのもの、核にあたるものは作品の中身だと思うので、でも切り離せないものではあるし…うまい表現が見つからない)だな…と思っています。

なのでビビッと来るタイトルに「出会って」しまうと、魂で通じ合ったような…そんな…危険な興奮に陥ってしまうことがある。

 

あと昔のツイートでも似たようなことをしていた。

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学生時代、写真展に写真(単体だったりブックだったり)を出展するときにどうしてもタイトルを付けなきゃいけなくて、でも撮った時にそこまで深く考えていなかったものにタイトルを付けるという行為が難しい上になんだか嫌で、「無題」で出そうとして止められたことがある。結局付けたタイトルは確かやっぱり否定形を含んだもので(よく覚えていない)、あと友人の付けた作品名とたまたま似ててシンパシーを感じた。その子は親友。新刊にも登場します。

今まで写真集につけたタイトルは、

・星の子どもたち(学生時代のブック)

・Children of Stars(ZINEで出した北欧の写真集。↑の英訳で、表紙が同じ)

・pose(学生時代のブック。就活の時ポートフォリオ代わりに一度渡したら紛失されて戻ってこなかった…)

・pause(↑と同じ写真展で、セットで出したブックだけど製本方法が全然違う)

・そのくには(学生時代の台湾写真集)

・Unnamed Colors(ウズベキスタン写真集)

・Anonymous(デンマーク写真集)

寂しい写真ばかり撮るのが好きだから、寂しいタイトルを付けがちです。学生時代から変わってないけど、かっこいい英語を使おうとしてあまり意味わかってない単語を使うのをやめてほしい。

気恥ずかしい…でも気に入っている…かもしれない。単体写真のタイトルはほぼ総て忘れたんですが、ひとつだけ覚えているのがあって、でも写真が見つからない。見つかったら写真と一緒に載せようと思います。

 

今日知ったんですがマイク・ミルズ監督の新作、配給がA24で主演がホアキン・フェニックスだ、楽しみで仕方ない。おやすみなさい。