人と行く本屋

最近、人と会うたびに一緒に本屋を訪れている。

それで気づいたけれど、私は人と本屋に行くのが好きだ。というのも、面白い本を読む人、好きな本の紹介をするのが上手な人、文章を書く人、漫画が好きな人、漫画を描く人、装丁を見るのが好きな人、といった本にまつわる多種多様な触れ方をしている友人たちに私は恵まれていて、そのような人たちと本屋に行くといつもユニークな体験に巡り合う。

棚に並ぶ本を見つけて「あっ」と手に取り、小さい頃の読書体験の話を聞いたり、最近読んだ本の感想を熱っぽく語るのを聞いたり、ある本を題材にして学生時代に書いた論文の話を聞いたり、装丁デザインに一目惚れして手に取ったり、どれもその人その場所でしか得られない、かけがえない瞬間だ。天井近くまで聳え立つ書棚にぎちぎちと詰め込まれた、一生かけても読みきれない膨大な本たちに囲まれた中で送るその時間がとても大好きで、楽しい。本屋にはいつまでもいられる。

 

高校3年の卒業の春、地元から進学のために上京する友人を見送りに行った事があった。果たして私はそんなに彼と親しくしていたか思い出せないのだけれど、彼との共通の友人B君に突然誘われて、特急列車の止まる駅まで出向いた。彼の見送りの際に何を話して、ホームはどんな様子で、当日はどんな天気で、などは一切覚えていない。覚えているのは、彼の出発を見送ったあとにB君(そもそもその時点でB君ともほとんど話した事がなかった)と駅ビルに入っている本屋に行ったことだ。なんで本屋に行ったのか思い出せないが、多分B君が本屋行かない?と提案したのだと思う。

その時間は、とても楽しかった。私はあまり本を読まないので眺めていたのは専ら漫画の本棚だった。B君は割と漫画を読む人で、私たちは漫画の書棚の端から端まで練り歩き、お互い好きな漫画を見つけてはその面白さや思い出について紹介し合った。B君はある漫画をものすごく賛辞し、そしてとある作家をボロクソに貶していた。野球部に所属していた彼は、部活の友人と本や漫画の話をすることはあまりなかったという。何やら楽しそうに話す彼の姿を、申し訳ないけれど上京していった友人の姿よりもよく覚えている。多分あの日が、人とじっくり本屋に行くという体験の第一回目だった。

 

いつからか分からないけれど、もの(コンテンツ)に囲まれすぎる場所というものが苦手だった。どうやって選べばいいか分からないからだ。たくさんの映画に囲まれたくて渋谷の巨大なTSUTAYAに行くのに、あまりにも多くの映画たちの存在に圧倒されてしまい、何度も足を運んだにも関わらず実際に借りられたのは数本だけだった。悩みに悩んで結局何も持たず、頭痛を伴って退店するのがいつもなんとも情けなかった。図書館も同じで、行くまではウキウキと希望に溢れているのに、図書館を後にする時に鞄に本が入っていることは少ない。多すぎるそれらの中から最善のものを選べるのか、という誰にも押し付けられていないプレッシャーを感じてしまう。要するに期待過剰というか、一つのものに賭けているものが多すぎるのだと思う。砂漠の中で金の粒を探すような、そんな気持ちになる。別にそこは「たったひとつ」を見つけ「なければいけない」場所ではないから、手の中にあるものが金の粒である必要はないのに。

矛盾するようだけど、DVDレンタルショップも図書館も、大好きなのだ。大好きだから行っている。引っ越すたびに近所の図書館で貸し出しカードを作るのだから。

 

なんとなく、これはあくまで私にとっての話だけれど、本屋というものは前述のそれらよりいくらか気軽でふらっと入れる場所に思える。平積みの本や面置きしてあるものが多いのもあるのかもしれない。美しい装丁の本が、センセーショナルな帯が、こちらに一定の距離を持って佇んでいる。自分も拙いながら本(漫画の同人誌)を作るようになって、装丁を始めとして色々な場所に目がいくようになった。どんな紙を使っているのか、フォントは何を使っているのか、書名や章題、デザイン事務所、そうして眺めていると漠然と「何か作りたい」という気持ちが湧いてくる。隣で同じように共鳴している人がいるとなおさら。

 

私と出かける友人たち、待ち合わせてご飯を食べている時や喫茶店でお茶している時に急に「本屋行かない?」と言い出すのを許してほしい。でも多分、きっと楽しい時間になる。そう思う。これからもスーパーやコンビニに行くような気軽さで本屋に行き、たくさんの本を眺めよう。そして誘惑に負けて、一目惚れした本を買う。その様をどうか隣で見ていてください。