旅の写真

(この記事はイベント前に書いて下書き保存していたものです)

 

イベント用の諸々の準備が終わりつつあるので、久々に…というか今年に入って初めて(!)映画を観たりしている。そして100年前からやりたいと思っていたフォトブックの写真を選んだり、印刷サービスを比較したり。

学生の頃のブック(今更だけど私の所属していた写真サークルは単品ではない冊子形式の作品集のことを「ブック」と呼んでいた)は置いておいて、写真集はほとんど旅行写真集しか作った事がなくて、なのでそうじゃないブックをずっと作ってみたかった。

 

旅の写真集を作るのはもちろん思い出作りにもなるし、人に喜んでもらえるというのもあって作ってて楽しかった。けどどこか逃避みたいなものも感じていて(このことは旅行写真集自体を貶めるものでは何らなくて、旅行写真集は旅行写真集なのでそれだけでよかった)、というのは、旅行写真集は「旅行」というテーマがあるのでそれでもう第一関門は突破というか、大きな意味を持たせる必要がないというか、むしろ持たせてはいけないと思っていた。何故なら撮っている時に大きなテーマや主張を込めて撮ってはいなかったので、本を作る時にいきなり主張を込めるのは付け焼き刃のような、とってつけたような滑稽なものになる…と自分で思っていた。

なので単純に「旅先で私が見たもの、見て美しいと思ったもの」を並べることだけに注力していた。一枚一枚に感じたものだけ、観てもらう側にもしも何か感じてもらえたらそれは幸せなことだなあ…と思っていた。

 

という訳で、旅とは関係ない写真集に真剣に向き合ったことがない。世の写真家たちは、どうやって写真集を作るんだろう。

好きな写真家の川島小鳥さんの「明星」は、何年もかけて台湾に足を運び、現地の彼らと仲良くなって撮り溜めた写真たちを載せた本だ。

こないだ見たロニ・ホーンの展示では、6週間かけて同じ場所と距離・アングルで同じ女性を100枚も撮った写真を見た。

写真家によってアプローチは様々だろうし、私は写真家ではなく(写真家の定義ってよく分からないけど少なくとも)趣味で撮った写真を製本することに嬉しさを感じるだけのただの人なので、ここまで考える必要はないし、そもそもやっぱり撮った時に考えていた事がもう思い出せない以上は何か意味を持たせることは滑稽でしかない。

こういう難しい書き方ばかりしてるとブックを作るハードルがどんどん上がる一方なので、この話は終わり。

余談だけど、人を撮るのは難しい。私が人と関わるのが下手くそだからそうなんだと思う。上で挙げた2つの写真集は被写体との関係性が紙の向こうからひしひしと、じんわりと伝わってくるそんな本で、私には(その技術というか、その在り方が)とても遠いものに感じる。森栄喜さんの『intimacy』を最初に見たときもそう感じた。

私は山や海や、遠い草原で人がぽつんと立っているようなそんな写真を撮るのが好きだし、現像データを見て「私らしい写真だ」と感じる。それは同時に少しさびしい。

 

旅行写真集に意味をもたせないとはいえ、写真の配置は毎回とても悩んでいた。フォトブックアプリ(いつもしまうまプリントさんには大変お世話になっております)で配置を試したり、試し刷りして全体のリズム感を見てみたり…

「ここ、植物の写真が固まりすぎてる」や、逆に「ここの見開き、3連続で【左:植物】【右:人物を限りなく遠くから撮ったショットだ、恥ずかしい」、「なんかここら辺のページ全体的に茶色い」「好きな写真を選んだら人物写真が一枚も無くなった(無くてはいけない訳じゃないけど)」などなど色々改善点は出てくる。

でもこの作業はとても楽しい。

 

誰かと旅行に行った時は、いつも帰国して写真を現像したあとにしまうまプリントでフォトブックを作って、同行者にもらっていただいたりしていた。母とポルトガルに行った時は、初めて母にフォトブックをプレゼントできて嬉しかった。一眼レフの調子が悪く、ほとんどの写真は露光がめちゃくちゃになっていて新宿のビックカメラで男泣きしたけど、iPhoneでも沢山写真を撮っていたので助かった。思い出は心に残るけど、何気ないことは少しずつ忘れてしまうから、写真を撮っていてよかったと後々思うことがたまにある。

母とロカ岬で強風に煽られながらのツーショットは最後の方に忍ばせた。この写真集は母の棚の一番下の段で今も面置きされている。