夢の旅先

少し不思議なことはたまにある。

 

カナダで仲良くしていた友人が帰国し、会おう!という話になって久々に対面した。

彼女は初めて出会った時からのらりくらりとしていてどこか掴みどころがなく、でも強いひとで、私の話をいつも笑って聞いてくれる。けらけらとよく笑う。共通の趣味があるわけでもなく、例えば高校のクラスが同じだったとしても一緒に行動はしていなかったかもしれない。でも彼女といるのは居心地がよかった。いつも笑ってくれるから、話していると私もなんだか元気になる。

 

再会を喜び近況を話しつつ、なんとなく「またどこかに行っちゃうのかと思った」と言うと、「え!そうなの来月日本を発つよ」と彼女が言ったのでびっくりして、旅立つ先の国名を聞いてまたびっくりした。それは私が昨晩見た夢で訪れていた国だった。

私は昨日ある国を訪れる夢を見た。なぜその国なのかというと、すでに別の友人が滞在しているからなのだと思う。でも私はその国を訪れたことはなく、つまり空想上の国を旅していた。私は母と伯母とその国を訪れ、知らないフードコートにいた。ハンバーガー店と思わしき店舗の列に並び、隣の列の男性が何かしらのバーガーを頼んでいるのを見てメニュー表からハンバーガーを探した。でも、どんなに目を凝らしてもハンバーガーといった類のものは見つからない。メニュー表には謎の、得体の知れない料理名が並び、自分が食べたいものというとポテトくらいしか見当たらない。その得体の知れないものから何か一品頼み、ポテトを頼み、ジンジャーエールを頼んだ。すぐに店員の女性が何かのスイッチを押すと、ティム・バートンミシェル・ゴンドリーの映画に出てきそうな大掛かりで不思議な機会が動き出し、大きな紙カップに飲み物を注ぎ始めた。この機械が止まったら蓋をして、ストローを刺し、手渡されるんだろうなとその機械を眺めていたら、死角から急に全く別のカップを渡された。それはホットジンジャーエールだった。かなり台無しだ。

クリスマスマーケットでもないのに。と残念な気持ちで熱々のホットジンジャーエールをひと口飲み、それまで英語で話していた店員の女性が突然流暢な中国語で話し出したので「すごい!」と拍手した。現実では全く理解していない中国語でもなぜかするすると理解できるのが、夢のいいところだ。そしてここで夢はチャプターが切り替わり、舞台はまた別の国へと移る。

 

ここまで詳細にあるワンシーンを描写したが、上記のエピソードに「その国っぽさ」はなんら含まれていない。まあ訪れたことはないので当然と言えば当然だが、その国の有名な観光地に行ったり、その国の名物料理を食べたり、そういったエピソードは一切ない。その国の名前を借りただけの、わたしの記憶がごちゃまぜにミックスされた架空の国を訪れたに過ぎない。

でも、起きた時に「◯◯に行ったなあ」と思ったのなら、◯◯に行ったことになる。なので前日夢で訪れた国の名前を思いがけず聞いたので、驚いた。彼女に伝えると少し驚きながらいつものように笑っていた。

実はその国が夢に出てきた要因で思い当たることはひとつあるけれど、きっと興醒めさせてしまうようなことなのでここには書かない。

 

できれば、彼女がその国にいる間にそこを訪れたい。長期のビザを取ってしばらく住みなよと誘ってくれたけど、私は今日本でやりたいこともあるので旅行という形にはなりそうだ。でも離れた土地で頑張っている友人たちや、離れた土地でこれから頑張ろうとしている友人たちがいることは勝手ながら励みになる。あのカナダでの日々がよき思い出となって、また何かしらの行動を起こす原動力になっているのならば、それは素敵なサイクルだと思う。わたしも別のことを頑張ったりもしていて、そしてまた長期で海外に滞在したいなという気持ちも強く持っていて、それは彼女を始めとして優しい人たちに出会えて(優しくない人たちにも出会ったが)過ごした日々があったからだと思う。思い出は美化されていくから、日に日に辛かったことは削ぎ落とされ、あの日々が恋しくなる。国に帰った人たちも残っている人たちもみんな元気だろうか。元気だといい。

 

夕方まで話し込んで、彼女とは駅で別れた。寂しくないのはSNSでお互い近況を覗けるからと、またかの国で会おうという約束があるからだと思う。

ある晩のこと

今日のように気温の高い、でも高すぎない晩、その晩は家族が旅行か何かで出掛けていて、一軒家には私ひとりだった。

夕食を食べ終え、シャワーも浴び、寝るまでのゴールデンタイムをどう使うか私は考えた。それなりの時間があることから、映画を観ることにした。

それは『王様のためのホログラム』という映画だった。主演はトム・ハンクスで、トムが好きだから何気なく選んだ映画だった。事前に持っている知識もあまりなく、配信サイトの一覧から選ばれたその映画をとりあえず観ることにした。つまらないと思ったら寝てもいい。照明は薄暗く、目の前のテーブルには冷たい飲み物を置いて。形から入る私は居間を小劇場に作り替え、ソファに座って映画を観始めた。

内容については細かく書かないが、主人公の男性がサウジアラビアの王様にホログラムのそうちを売り込みに行くが、その先で色々と起こったりむしろ起こらなかったりする映画だ。

とても静かな映画だった。劇的な展開があるわけではなく、悪く言ってしまえば退屈なのかもしれない。少なくとも感動や衝撃を求めている人にお勧めする際には頭には登ってこないと思う。実際レビューサイトでの評価(こういった物をあまり気にしないようにしようと思いつつ、どこかで指標にはしてしまう)はあまり高くはなかった。本当になんとなく観始めた作品なのだ。映画の話をよく交わす知人友人たちにこの映画の話を持ちかけても、存在すら知らなかったという返事が今のところ一番多い。

 

でもなぜかその時の私にとっては面白いくらい、今となっては意味がわからないくらいに、それは私が求めていた映画だった。

広大な砂漠の中にポツンと佇むテントや、ちぐはぐな会話、感情の読めない人々や姿を見せない王様、それらがいつか一本の線になるのか分からないまま点々と存在している。映画が”展開していっているのか”どうかも分からない。そのうやむやさが、なぜか私のその時の気持ちにフィットしていた。エンドロールを観ながら、「これが私が今まさに観たかったものだ」と思った。本当にびっくりするくらい求めていた物だったので、ある種かなり興奮していた。

頑張ってよく考えれば理由付けをすることもできると思う。私は『ゴドーを待ちながら』のように主要となるべき人物が一向に現れない作品を好きな傾向にあるし、アラブ系の風景や習慣にも興味があるのでそういった面でも魅力的に感じる要因はある。

でも、多分そういうことではない。もっと心の中の波や、言い表せない何か奇跡みたいなものにしておきたい。そういう時、理屈は野暮になる。

あの晩、ひとりで、あのソファに座って。そういう環境的要因や心理的要因があの映画の波長と合致して、たまたま運命的な出会いになったのだと思う。例えば誰かと真昼間に観たとして、同じような気持ちになれたかと言えば多分そうではないと思う。それについては全ての映画体験に同じことを言えるけれども。

 

ああいう体験はなかなかないと思う。私は映画は映画館で観るのが一番好きだし、「この作品は映画館で観るべきだ」と思っている作品も沢山ある。でもこの作品との出会いを思い出す時、それが全てではないということもまた噛み締める。あの映画のことを思い出す時、居間の照明の薄暗さをまず思い出す。あれはいい空間だった。

映画に限らず、誰にでもそういう体験はあるのかもしれない。状況や心理状態によって作り出された、作品とのたったひとつの邂逅の体験。だからこそ、何故あんな作品をなんて、よく知りもしない他人が言い切れるものではないのだとそう思う。私だってあの晩を否定されたら、きっと傷つく。あれはいい晩だった。それは紛れもない事実である。

人と行く本屋

最近、人と会うたびに一緒に本屋を訪れている。

それで気づいたけれど、私は人と本屋に行くのが好きだ。というのも、面白い本を読む人、好きな本の紹介をするのが上手な人、文章を書く人、漫画が好きな人、漫画を描く人、装丁を見るのが好きな人、といった本にまつわる多種多様な触れ方をしている友人たちに私は恵まれていて、そのような人たちと本屋に行くといつもユニークな体験に巡り合う。

棚に並ぶ本を見つけて「あっ」と手に取り、小さい頃の読書体験の話を聞いたり、最近読んだ本の感想を熱っぽく語るのを聞いたり、ある本を題材にして学生時代に書いた論文の話を聞いたり、装丁デザインに一目惚れして手に取ったり、どれもその人その場所でしか得られない、かけがえない瞬間だ。天井近くまで聳え立つ書棚にぎちぎちと詰め込まれた、一生かけても読みきれない膨大な本たちに囲まれた中で送るその時間がとても大好きで、楽しい。本屋にはいつまでもいられる。

 

高校3年の卒業の春、地元から進学のために上京する友人を見送りに行った事があった。果たして私はそんなに彼と親しくしていたか思い出せないのだけれど、彼との共通の友人B君に突然誘われて、特急列車の止まる駅まで出向いた。彼の見送りの際に何を話して、ホームはどんな様子で、当日はどんな天気で、などは一切覚えていない。覚えているのは、彼の出発を見送ったあとにB君(そもそもその時点でB君ともほとんど話した事がなかった)と駅ビルに入っている本屋に行ったことだ。なんで本屋に行ったのか思い出せないが、多分B君が本屋行かない?と提案したのだと思う。

その時間は、とても楽しかった。私はあまり本を読まないので眺めていたのは専ら漫画の本棚だった。B君は割と漫画を読む人で、私たちは漫画の書棚の端から端まで練り歩き、お互い好きな漫画を見つけてはその面白さや思い出について紹介し合った。B君はある漫画をものすごく賛辞し、そしてとある作家をボロクソに貶していた。野球部に所属していた彼は、部活の友人と本や漫画の話をすることはあまりなかったという。何やら楽しそうに話す彼の姿を、申し訳ないけれど上京していった友人の姿よりもよく覚えている。多分あの日が、人とじっくり本屋に行くという体験の第一回目だった。

 

いつからか分からないけれど、もの(コンテンツ)に囲まれすぎる場所というものが苦手だった。どうやって選べばいいか分からないからだ。たくさんの映画に囲まれたくて渋谷の巨大なTSUTAYAに行くのに、あまりにも多くの映画たちの存在に圧倒されてしまい、何度も足を運んだにも関わらず実際に借りられたのは数本だけだった。悩みに悩んで結局何も持たず、頭痛を伴って退店するのがいつもなんとも情けなかった。図書館も同じで、行くまではウキウキと希望に溢れているのに、図書館を後にする時に鞄に本が入っていることは少ない。多すぎるそれらの中から最善のものを選べるのか、という誰にも押し付けられていないプレッシャーを感じてしまう。要するに期待過剰というか、一つのものに賭けているものが多すぎるのだと思う。砂漠の中で金の粒を探すような、そんな気持ちになる。別にそこは「たったひとつ」を見つけ「なければいけない」場所ではないから、手の中にあるものが金の粒である必要はないのに。

矛盾するようだけど、DVDレンタルショップも図書館も、大好きなのだ。大好きだから行っている。引っ越すたびに近所の図書館で貸し出しカードを作るのだから。

 

なんとなく、これはあくまで私にとっての話だけれど、本屋というものは前述のそれらよりいくらか気軽でふらっと入れる場所に思える。平積みの本や面置きしてあるものが多いのもあるのかもしれない。美しい装丁の本が、センセーショナルな帯が、こちらに一定の距離を持って佇んでいる。自分も拙いながら本(漫画の同人誌)を作るようになって、装丁を始めとして色々な場所に目がいくようになった。どんな紙を使っているのか、フォントは何を使っているのか、書名や章題、デザイン事務所、そうして眺めていると漠然と「何か作りたい」という気持ちが湧いてくる。隣で同じように共鳴している人がいるとなおさら。

 

私と出かける友人たち、待ち合わせてご飯を食べている時や喫茶店でお茶している時に急に「本屋行かない?」と言い出すのを許してほしい。でも多分、きっと楽しい時間になる。そう思う。これからもスーパーやコンビニに行くような気軽さで本屋に行き、たくさんの本を眺めよう。そして誘惑に負けて、一目惚れした本を買う。その様をどうか隣で見ていてください。

椅子に座る

日本に帰ってきた。

カナダに3ヶ月半、イギリスに3週間。結局日記は二度しか書けなかった。帰ってきて今日でまる2週間、机に向かうこともできていなかった。やらなきゃいけないこと、会いたい人たちとの約束など必要最低限のこと以外はずっと布団の中にいた。ロンドンに比べたら東京はとてもあったかく、空港でコートを抱えて歩いたのが滑稽なくらいに思えたほどだったけれど、暦の通りに少しずつ、いや一気にかもしれない、寒くなってきた。そんな肌寒い気温の中で、ふかふかの羽毛布団に身体をくるまれた時の心地よさは筆舌に尽くし難く、私をどろどろにした。昼夜逆転という言葉も通用しないほど、一日中眠り続けていた。最初の5〜7日間くらいは時差ボケという言葉で済ませていたけれど、そろそろそうも言っていられないんだろうな。と思いながら毎日ベッドに身を沈め、まどろみに逃げて、あまりよくない夢を見ている。最近はずっと商業BLを読んでいて、こんなにたくさんの愛の形に触れているのに、どうしてこうも夢には反映されないんだろう。

毎朝、明け方4時ごろに一度起きる。思わずSNSを開くと、カナダの友人たちが起きて活動をしている。ツイッターでは、日本の知り合いたちが漫画を描いたりしている。誰かがいつもどこかで何かをしているということを実感すると、ほっとする。カナダはもう寒いだろうか。こちらでは、5時になる頃には鳥がもう鳴き出す。カナダでの毎日は色々あって、くたくたで寝ていたので明け方に起きることは少なかった。だから私はあの土地で鳥が何時ごろに鳴き始めるのかを知らない。

 

ごちゃごちゃの部屋の中で這いずるように生活して、少しずつ荷解きをして、少しずつ少しずつ前の日常を取り戻そうとしている、まだその最中。父に世話を頼んでいた観葉植物(3倍大きくなっていて自信を無くした)を部屋に戻し、ルームフレグランスを取り替え、加湿器に水を入れ、いない間に届いた郵便物などの書類を整理し、そして今日、帰ってきて2週間目でようやく椅子に座って机に向かい、PCを点けた。立ち上がりっぱなしだった各アプリケーションやブラウザには、留学のための情報がぎっしりだった。ブラウザでは空港の地図も開いてあって、心配性の自分に苦笑しつつ、もう終わったよ、と心の中で言いながらひとつひとつそれを閉じていった。とりあえず、長めの旅がひとつ終わった。

 

ちょっと休憩というには、私は長い時間を使いすぎた。人生100年と思えばほんの一瞬かもしれないけれど、焦る気持ちはある。心も身体も、きっとこれから先の人生長いこと病気との付き合いになる。付き合い方をまだ考えている。今は確かに何にも縛られていなくて自由ではあるけれど、私は「なんでも好きにしていいですよ」とポンと放り出されると途端にどうしていいか分からなくなる。ちゃんと先の筋が決まっている道を歩くのが好きだ。だから今の状況はふわふわしていて、毎日どこか少し怖い。でも働いていた頃の生活に戻るのもまだ少し怖い。こなせるだろうか。自分の中の、予想していない部分がまた壊れたりしないだろうか。

どっちつかずの心のまま、もう少しだけ眠っていようと思う。多分誰も怒ったりしない。もう少しだけ眠ったら、起きてみようと思う。とりあえず今日は椅子に座り、日記が書けた。それだけで私にはものすごい前進なのだ。

近況 カナダ

落ち着いたら日記を書こう書こうと思って、こんなにも時間が過ぎました。


カナダに来て一ヶ月が経ちました。

正確には一ヶ月ともう10日も経っています。体調を崩して丸一週間寝込んでいたので、体感は本当に一ヶ月経ったくらいの気持ちです。


これまでの細かい経緯はまたいつか漫画か文章かにまとめるとして、とりあえずようやく生活のリズムが掴めてきたことをお知らせします。最初の二週間ほどは本当に本当に辛くて、泣いてばかりいて(この歳で孤独感や無力感で大泣きするとは思わなかった)帰国をどれくらい早めるかだとか、頭の中はそればかりでした。多分、こちらに着いた頃は天気がものすごく悪い日が続いたのととにかく寒かったのとが関係しているのかと…。ですが、今はなんとかやって行けています。天気も最近はとてもいい感じです。いまだに毎日のようにトラブルを起こしたり「これでいいのか?」という不安の波に押しつぶされそうにはなっていますがとりあえず、生活はできています。6時半に起きて、朝食を食べて朝の準備と昼食(パンに何か挟むか塗るかしただけのサンドイッチorベーグルorイングリッシュマフィン、あとバナナ)の用意をして学校に行って、午後からは友人と予定がある日はお茶したり、何もない日はあたりを散策したり、スーパーで食材を買って夕飯の作り置きを準備したり、そんな毎日です。日本では9時半ごろに起きていたのでその頃から考えると規則正しすぎて自分でも驚きます。

悩みや愚痴をたくさん聞いてくれた日本の友人たち、本当にありがとう。3kg痩せましたが生きています。

そう、なんか、生きているな…。不思議な気持ちです。こちらの月曜の夜は、日本での火曜の昼間です。不思議です。


いろいろな国の人と話をします。びっくりするようなこともびっくりされることも多々あって(日本の文化や習慣って本当に独特)、面白いな〜と思います。ペルー人の男の子に「結婚式でみんなでダンスしないの?!」と驚かれたのが最近の興味深いことでした。「こういう文化の違いとか話すの面白いね」と言ったら「面白いね!」と返してもらえて、そういうことがいちいち嬉しいです。最初の二週間本当に友達ができなく、ひたすら孤独で辛かったので、わたしはいちいち感動してしまいます。こちらはアジア系の人々がとても多く、そして学校にはラテン系の人がたくさん居るのでよく話をします。わたしの英語はネイティブスピーカーには聞けたものではない(ホストマザーに毎日聞き返される、わたしの発音とぐちゃぐちゃの文法、少ない語彙)ですが、学校ではなんとな〜くで会話が進んでいきます。南米はいつか行ってみたいとは思っていたものの、とても遠い場所だという認識が強く、知らない事がたくさんあって勉強になります。ブラジルで使われるポルトガル語と、ポルトガルで使われるポルトガル語の違いを聞いたりしています。(面白い話があったけど、ここには書けない!)そういえばチリやペルーやメキシコで使われるスペイン語たちの違いだとか、スペインで使われるスペイン語との違いも知りたい。今度聞いてみます。


一ヶ月経ったのでたくさん話題はあるのですが、どこから書けばいいやら……。スペースやツイートでもたま〜に話したりしているのでいざとなると言葉が出てこない。とりあえず、家の周りはとても綺麗なお家が並んでいて、みんなガーデニングに気合が入っています。家には黒いもふもふの猫と白×グレーのもふもふの猫がいるので、猫と暮らす夢は叶いました。短期間だけど…嬉しい事この上ないです。猫はすぐ喉をぐるぐる鳴らしてわたしの足元に擦り寄ります。なんでこんなに可愛いんだ。一生擦り寄っててください。


自炊についてはまた今度別の記事で書こうかなと思っているので、よかったらまた覗いてみてください。

今一番食べたいものはなんだろう…家族でホットプレートを囲んで焼いたお好み焼きが食べたいです。

役に立つ情報は書けるかな、何か役に立つことがあればそれも書きたいな。

 


p.s. どうかスキップとローファーの最新巻を読んでください。お願いします。

では。

無題(無題)

お久しぶりです

あまりにブログを書いてなくて、このままここは「かつての場所」になっていくのかな と思いましたが、とりあえずここに文字を置きます。

直近とても忙しく、のんきにブログなんて書いている場合ではない。でも気まぐれに書いてみないと、ここはすぐに「かつての場所」になります。

 

ひとつ決めていた大きなことが終わって、辺りを見回したりして、自分のこの1〜2年間を振り返ってみた。客観的に見るとあまりにも不幸な気がして(不幸の下限、上限なんてここでは無視して)それはそれでまたしんみりと切なかったけれど、身体の病気になって、心の病気になって、それでも今の自分の方が昔よりましに生きられていると思った。なんか、ものを作るというのはいいことですね。わたしが作った本をわたしの敵やわたしを傷つけるものだと思ったこともあったけれど、今はそれなりに愛しいです。そう思えるようになってよかった。

 

明日もやることがたくさんだ。

次いつ更新するかわかりませんが、今日はここまでにします。読んでくれてありがとう、おやすみなさい。

 

紙と写真

しばらく記事を書けていなかった。

というのは確定申告とか、病院とか、次の原稿とか、色々バタバタしていたから。気持ちを落ち着かせるために日記を書いているけど、もはや日記を書くことでは落ち着けられないレベルで気持ちがタスクに圧迫されていた。実際のところはずっと時間があったのに。

原稿…この間脱稿したばかりでは?という感じですが、本当にそうで、この2〜3年間、原稿をしていなかった期間がほとんどない。原稿が終わって、イベントの準備に追われて、イベントが終わって放心状態になり、そしてまた次の原稿(テラ)へ…というノンストップマラソンだったので、もはや原稿のない時に何をしたらいいか分からない。

原稿の合間に、どうしても見たい展示や映画などを、数時間単位で捻出してなんとか向かうという日々だった。

 

紙で何か作るのは楽しい。装丁の話をするとき、とてもワクワクしているということに最近改めて気付いた。

紙に触れた時の触感、日の光の当たる角度によって変わる色や表情など、それはやっぱり紙ならではだと思う。電子書籍と紙の書籍にはそれぞれデメリットがあって、やりやすいこと、怖いこと、便利なこと、色々とあるけれど、インクが紙に載るということや紙の組み合わせから生まれるいろいろなものが私は多分かなり好き。

 

今まで、写真集もイベントの時にいくつか作ってきて、しかし旅行に行かない期間が長くなるほどに写真のストックも減ってきて(私は遠出する時以外はそんなに写真を撮らない)、特に新しい写真集を作りたいという気持ちが薄らいでいた。

だけど紙や装丁のことをあれこれ友人と話しているうちに、今までの写真も含めて白黒で刷り直したらどんな感じだろう?インクの載り方や全体の雰囲気はどう変わるだろう?それも、大好きな紙に刷って、大好きな綴じ方で…。と思ったら途端にワクワクしてきた。

思いついてから、ハトロン紙(片艶クラフト紙)を注文するまでは本当に早かった。(ついでに発送→到着までもとても早かった)届いた紙に、自宅のモノクロレーザープリンタで写真を刷ってみたら、かなり…いい感じだった。ハトロン紙は裏表で紙質が違い、ざらざらした面とつるつるした面の二面性を持つ。裏と表両方に刷ってみたら、刷り上がりの感じが全然違う。

 

写真を撮り始めた頃から今まで、なんとなく、「色」がすごく大事だと思っていた。こういった色の組み合わせはこんなに素敵なんだということを、露出やシャッタースピードや絞りの偶然により気付かされる、それが面白いと思っていた。単純にきれいな色のものを見るのも好きだった。

でも同時に白黒写真への憧れはすごくあって、色の美しさという面(これを武器の一つだと思っている)を持ち得ない白黒で魅せられるというのはとても強くてかっこいいと思っていた。

私が今回試し刷りしたのは元々カラーだった写真を白黒に加工したものなのでその点紛いものみたいに感じているところはある。いつか、白黒フィルムをちゃんとカメラに装填して(カラー写真と白黒写真はそもそもフィルムの種類が違う)自分をワクワクさせられるような写真を撮ってみたい。

 

自宅クオリティではあるけれど、なんとか漫画を早めに仕上げて、数冊でもいいからこの写真集を作ってイベントに持参できたらなと思う。そう思うと漫画の筆も気合が入ってくる。

イベントが終わるたびに、「これからはしばらくは本作りは休んで映画を見たり本を読んだり、好きなことをしよう…」と思うのに、好きなことが本作りだから、結局原稿や本作りにコマを進めてしまうのであった。つまり、幸せ。